浜田省吾さんと言えば、日本のロック・ポップス界を代表する名ソングライターです!
1976年にデビューして以来、現在まで数々の名曲を作り続けています。
また、これほど楽曲は有名なのにもかかわらず、実像はほとんど知られていない事でも有名です!
その理由は、TV全盛時代においてほぼTV出演が無い事と、特にサングラスを人前では絶対に外さないので、素顔が知られてない事があげられます。
そんな浜田省吾さんの、嫁さんや子供はどうなのでしょうか?
また、TVに出ない理由やサングラスのこだわりとは何なのでしょう?
ちょっと気になったので調べてみました!
目次
浜田省吾ってどんな人?
プロフィール
生年月日 1952年12月29日
出身地 広島県竹原市
身長 167cm
血液型 O型
学歴 神奈川大学法学部中退
浜田省吾の経歴は?
浜田省吾さんは、1963年頃にビートルズの「プリーズ・プリーズ・ミー」を聴いて衝撃を受け、姉が誕生日プレゼントに貰ったギター取り上げてギターを始めました。
また、中学生になると、ビートルズ以外の洋楽にも興味を示し、特にビーチボーイズなどのサーフィン&ホットロッド系の楽曲が好みで、ラジオにかじり付いて聴いていたようです。
そして、高校に進学すると最初は野球部に入部していたものの、後にフォークソング・クラブなどに入り音楽を始めています。
その頃は主に、レッド・ツェッペリンなどを聴いていました。
その後、一浪して神奈川大学法学部に入学しますが、まだ学生運動が盛んな時期だった為、学校が休校になったりしていました。
そんな時に昔の旧友と再会し、本格的にバンド活動を始めるようになります。
そして、そのまま音楽活動にのめり込み、1973年にはとうとう大学も退学してしまいました。
大学退学後は、故郷の広島に戻り昔の仲間を集めて「愛奴」(あいど)と言うバンドを新たに作り、活動を始めています。
このバンドでは浜田省吾さんはドラムを担当していました。
そして、1年間はウェイターのバイトをしながらバンドの練習に明け暮れて、徐々に地元の音楽プロデューサーなどに評価されて行きます。
そんな努力の甲斐あって、翌年の1974年には再び上京し、吉田拓郎さんのバックバンドとして活動するようになると、何度か『ミュージック・フェア』などのテレビにも出演するようにもなりました。
さらに、1975年にはバックバンドでは無く「愛奴」としてのデビューが決まり、シングル「二人の夏」でレコード・デビューします。
しかし、かなり大掛かりなプロモーションを行ったにもかかわらず、売れ行きはさっぱりでこれがキッカケとなり、浜田省吾さんは「愛奴」を脱退する事となります。
脱退の理由は、メンバー全員の音楽性がバラバラだった事と、シンガー・ソングライターへの憧れが強かった為と言われています。
こうして、浜田省吾さんは1976年に再びソロとして、シングル「路地裏の少年」でデビューしました。
当初、制作サイドは浜田省吾さんのメロディーセンスを買って、「ポップなメロディーメイカー」として売り出そうとしていましたが、浜田省吾さん的にはやはりロック的な要素が好みだったので、なかなか折り合いがつきませんでした。
なので、作る作品もどれも中途半端なものとなり、出すアルバムもあまり売れず挫折と苦悩の日々が続いていきます。
しかし、1980年に出した6枚目のアルバム『Home Bound』から、ずっとやりたかった本格的ロックに曲調を変えリリースした事で、今後の方向性がしっかりと定まりました。
ここから浜田省吾さんらしい音楽性が出てきた事で、一気に周りに認知されるようになります。
そして、無謀と言われた初の武道館公演もチケットが完売になるなど、その後はアルバムを出す事に不動の人気を得て行くようになり、現在に至ります!
浜田省吾の嫁や子供は?
浜田省吾さんは1978年に25歳で、年上の一般人女性と結婚しています。
奥さんとの出会いは20歳くらいの時、まだ「愛奴」としてグループ活動をしていた頃でした。
駅で傘が無くて困っていた奥さんに、「良かったら入りませんか?」と声をかけたのがキッカケで、奥さんも普段なら断るのにその日はたまたま風邪をひいて会社を早退していた為、早く帰りたかったので「お願いします」となったそうです。
さらに、奥さんを家まで送ると、当時「愛奴」のグループで住んでいた場所と近かった為、その後ちょくちょく奥さんが友達を連れて遊びに来るようになり、だんだん仲良くなって行ったみたいです。
こういう話を聞くと、本当に「運命」ってあるものだなとつくづく思います。
恐らくその日に雨が降っていなければ、この出会いは無かったでしょうし、奥さんも風邪をひいて早退して無ければ会わなかった訳ですから、運命としか思えません。
そして、そのままずっと付き合って、まだ売れる前の浜田省吾さんと結婚している事からも2人の絆の深さが分かるような気がします。
さらに、浜田省吾さんのソロデビューアルバム「生まれたところを遠く離れて」のジャケットの裏で手をつなぐ女性が奥さんなので、どれだけ大事な人なのかが分かります。
また、結婚してから1年後に出したカップヌードルのCM用シングル「風を感じて」が10万枚を超えるヒットとなり、それまでヒット曲が無かった浜田省吾さんにとって初ヒット作となりました。
これもやはり「結婚効果」ではないかと思うので、浜田省吾さんにとって奥さんは幸運の女神のような存在なのかもしれません。
そして、結婚当時まだ売れてなかったので、結婚資金や新婚旅行の資金は、他の人への楽曲提供の資金を工面して何とか作り、新婚旅行はハワイに行ったという事です。
その結婚式の際、有名なバラード曲である「君に合うまでは」を歌ったと言われています。
しかし、結婚はある意味運命の人と結ばれてとても幸せそうなのですが、現在まで浜田省吾さんとの間には子供は生まれていないようです。
浜田省吾がTVに出ない理由やサングラスの意味は?
浜田省吾さんは、過去に何度かはテレビ出演されているようですが、それもごく初期の頃でそれ以外はほとんど出演されていません。
そして、テレビ出演しない理由としては、1979年にカップヌードルのCMで歌った「風を感じて」がヒットした時、その関係で当時の歌番組「夜のヒットスタジオ」などに呼ばれてテレビ出演した経験が主な原因のようです。
今はどうか分かりませんが、この当時の歌番組では2分くらいの歌を1曲歌うのに、朝から音リハ・カメリハを何度も繰り返し、10時間は拘束されたと言います。
そんな感じで『夜のヒットスタジオ』で2回、『ヤングおー!おー!』で3回、合計5回の地上波放送に出演しています。
さらに、こういった歌番組で当時のスターだった人達を目の当たりにして、「ここは自分の居場所じゃない」と思ったらしく、それ以後はテレビ出演は避けていると言われています。
当時、テレビ出演した後にこういった事を周りにこぼしていたようなので、テレビ出演はあまり良く思ってなかったと思います。
確かに2分くらいの歌を歌うのに、10時間も拘束されてはかなりキツイものがありますし、恐らく浜田省吾さんの性格的にも合わなかったのではないでしょうか。
そして、今やトレードマークとなっているサングラスですが、音楽をやり始めた頃からかけていた訳では無かったようです。
サングラスをするようになったキッカケは、吉田拓郎さんのバックバンド時代に7、8歳年上の吉田拓郎さんと比べると、かなり子供っぽく見えた事から「甘く見られないように」かけだしたとラジオで語っています。
それ以後はほぼサングラスをかけっぱなしなので、たまにサングラスかけたまま顔を洗ってしまう事もあるようです。
そして、現在までに意図的に公に素顔をさらした事は一度もありませんが、1987年にフライデーが奥さんとサングラスを外して歩いてる所をスクープしました。
この時、浜田省吾さんはかなり怒って「I DON’T LIKE “FRIDAY”」と言う曲を作っています。
また、1988年のツアーではサングラスを落とすと言うハプニングが起こり、目の前にいたお客さんには素顔をさらしてしまいました。
そして、この時のMCで「みんなも見るの初めてだろ?」と返したと言われています。
さらに、それ以外にも「素顔を覚えられるのも嫌だから」とも話している事から、歌以外ではスターになってチヤホヤされたいと言う願望も無いのだと思います。
そして、目立ちたがり屋の世の中で、やはりこういった感覚で活動されるアーティストは稀だと思うので、こういった立ち振舞いも浜田省吾さんの魅力なのではないでしょうか。
終わりに
浜田省吾さんの人気が衰えない理由は、曲も素晴らしいですがやはり歌詞が普遍的な意味合いのある物が多く、どの世代も関係無く共感できるからではないでしょうか。
また、テレビ出演しない代わりにコンサート活動はかなり力を入れているので、そこでしっかりファンの心を掴んでいるのも人気の秘密だと思います。
近年は4年に一度のコンサートですが、今後も浜田省吾さんの音楽には注目です!